テクノファのキャリアコンサルタントを指導した横山哲夫先生(1926-2019)は、目標による管理と人事考課の統合 についてこう述べています。これからの企業の人材育成の焦点は個立・連帯群の若者だということ。そして、個立・連帯群を惹きつけ、活かし、増やし、伸ばすマネジメントが人材育成のゴールだということ。個立・連帯群が個立指向であると共に組織の現実をわきまえた活私奉公型であることがポイントであると言っています。自分を活かす舞台として、組織のために全力投球できるのは若者達であり、自由化、国際化を底流とする連続初体験の時代に活躍できるのは、個立型ヤングをおいて他にいない。彼らを活かし、ふやし、伸ばすことがこれからの組織の活性化に不可欠であると述べています。
「中高年の経営者、管理者の皆さん、本当に今までご苦労さんでした。われわれ中高年の戦後の頑張りで、こんなによい時代を築き上げてきました。これからも頑張らなくてはなりませんが、しかしできるだけ早く、遅くとも新世紀の初頭までには脇役にまわりましょう。脇役として頑張り続けましょう。主役は個立・連帯ヤング達です。彼らの持つリズムと価値観でないと、これからの主役は勤まりません。彼らに未だ不足しているのは知恵と度胸でしょうから、われわれがそれを補ってやりましょう。助言は大いにしてやりましょう。しかし、彼らに執行権をできるだけ早く譲り渡しましょう。そしてそのために、個立型人材をもっとふやし、もっと育てましょう。」
出典 個立の時代の人材育成 横山哲夫 生産性出版 2003年
先生は”個別化された目標の設定”と聞いた途端に、”チームワークが乱れる”、”集団目標が阻害される”―と気遣う(あるいは反発する)日本企業の風土は承知しつつ、あえてMBO(目標による管理)を論じています。そのわけは個立・連帯群が最も納得しやすい、働きやすい考え方と仕組みをMBOが提供できるからです。「自分の仕事」、「自分の責任」を、仕事の中で、新人達に自覚させる最良の方法がMBOだと考えられるからでした。先生は個立・連帯群は、帰属・順応群よりも次元の高いところで組織の発展を考えていると言っていました。「自分の仕事」だけを考え、「自分の責任」だけを果たそうなどとは決して考えていない。その危険のあるのはエゴ過剰群であり、個立・連帯群と混同してはならない。個立・連帯群は自分の仕事、自分の責任を超えたところで組織に貢献し、組織と共に自分を向上させることを考える若者達であると常々言っていました。
―目標管理の悲劇―
早稲田大ビジネススクールには、各企業(ほとんどすべての業種を含む)から例年40名の若手社員が国内留学の形で派遺されてくる。そのうち、私の授業を選択する者は30名弱。彼らに毎年同じ質間を向けてみる。「目標(による)管理とか、MBO(management by objective)などの名称で呼ばれる管理理念と管理手法を、自分の会社(団体・公共機関)で実施していると思う人は挙手してください」。約半数がはっきりと、ないしは、もぞもぞと手をあげる。次の質間。「目標の設定に、自分の意思、判断が反映されていると思う人、つまり、すべての重点目標が上司から一方的に与えられるわけではないと思う人は?」。多くの手が下りるが、 数名はあげつづける。第三の質間。「設定目標の達成如何が、そのまま人事考課の中心部分となっているか、どうか?」。ここでほとんどすべての手が下りる。用意されている次のいくつかの質間は不要になる。目標管理らしい目標管理を実施している会社だと思われるケースは、最近五年間に知り得た約70のうちわずか3社、それも米国系の大手著名会社にかぎられている。このMBOの悲劇的現状への考察からはじめないと、この稿は先へすすめない。
まず第一にコトバによる混乱がある。「目標」をまったくロにしない経営者、管理者はいない。そこで、目標管理実施についての質間を受けたりすると、正直いって自分の仕事上の具体的目標を意識したことはなくても、一応、上司達から「目標」の大事さを聞かされることを思い出し、自信はないが、まあ当社でも建前としては実施していることになるのかな、といったあいまいな感じで”もぞもぞ”と手をあげることになる。
しかも「管理」というコトバもまた 「目標」に負けず劣らず、安易に用いられていることが混乱を増す。「管理」が「マネジメント」の、「管理者」が 「マネジャー」の訳語、ないしは同意語として用いられるのは経営関係者の中だけであって、一般には、”管理社会”や”管理野球”のように、「統制」の色濃く使われ、”管理より自由を”などと叫ぶ者まで現われる。筆者なども、ある教授にならって、「人事労務管理」の当世的語感の横行に嫌気がさし、単に「人事労務」ということの方が多くなった。
かくのごとき”目標”と”管理”とが合体した”目標管理”がMBOの訳語として登場したところに、ドラッカーが予想もしなかった誤解と混乱によるMBOの日本的幕開けの一面があった。そしてコトバによるMBOのイメージ混乱はさらに拡がる。それは、”目標”に独自の意味を持たせる人達の存在である。まず、目標を努力の向け先、対象としての必要性としてのみ考える、つまり”努力目標”としてとらえる人達である。この場合の”目標”は、高いほど、むずかしいほどよいとされる。具体性を欠いたものでもよい。達成可能かどうかの論議は脇におかれ、”あいまいさ”が許容される。”努力目標”は、MBO導入以前から日本では幅をきかしてきた”目標”である。目標の達成は副次的で、中心は努力の方におかれる。はじめから無理とわかっていることを目標に掲げることも一向に差し支えないわけであるから、達成結果そのものが問題にされるよりは、目標に向けての努力、ガンバリ、忍耐の方がより問題にされ、評価の中心となる。この「努力目標」では、達成をきびしく問われないため、目標を比較的、自主的に掲げやすいことと、創意工夫の余地が比較的大きいメリットがある、といえないことはない。
これと対照的なのは”ノルマ”としての目標である。”目標”は通常、一方的、強制的、そして具体的に与えられる。達成の方法も規定されることが多い。”ノルマ目標”の最大の眼目はそれが達成されることにおかれる。達成を困難にした状況の変化などは、いいわけとしては聞かれても、達成できなかった事実には変わりない。期限までの達成者には賞、未達成者には罰が伴う。直販セールスの歩合給や、生産従事者への出来高給などもこの流れを汲むものであろう。短期指向であり、強制的要素が濃く、厳然たる結果主義は日本では営業・販売部門系の一部を除き、やや一般化し難い面があるが、具体的でわかりやすく、責任をあいまいにしない点にメリットがあることはいえる(集団目標の個人レベルへの分割に当たって個人的事情、当人の意見に対する配慮などがある場合は、本来のMBOに近づいてくる。いわゆる「ノルマ」ではなくなってくる)。出典 個立の時代の人材育成 横山哲夫 生産性出版 2003年
「目標管理」というコトバを聞いただけで、”なにをいまさら”という冷淡反応、”そんなものまっぴら”という拒否反応がある中で、横山先生は敢えて目標管理(再)導入にこだわりつづけていました。目標管理こそが個別・個立の人事管理・人材育成システムの核心に坐るべき整合性を有しているからだというわけです。裏返していえば、個別・個立の視点を欠いてきたこれまでの人事管理体制の中では、目標管理は居場所を見出せない。 個立の時代の幕開けの中で、新しい人事管理の始動と共に、目標管理はいま初めてその場を得ることができるのに、コトバの誤用、濫用、混用の中に、MBOをまみれさせていることは本当に残念だと嘆いていたのです。
(つづく)平林良人